五稜郭

雑記

昨日はコナンの映画最新作『100万ドルの五稜星』を記事にしました。

今回は物語の舞台であり重要ポイントの五稜郭についてまとめてみました。

五稜郭の歴史

江戸時代末期に江戸幕府が蝦夷地の箱館開港時に造らせたものになります。

当時の箱館奉行所は海の近くにあり、外国の軍艦からの射程圏内にありました。

1853年にペリーが来航し、開港を求められた江戸幕府は長崎や下田、箱館を開港します。

そのため、万が一函館湾内に入った外国船に攻撃されないように、また函館山に登ることで奉行所が眼下に見下ろせるため防御に適さないとなり、今の五稜郭を作り箱館奉行所を移すことにしました。

築城計画に当たったのは武田斐三郎という人物で、緒方洪庵や佐久間象山の下で学び、蘭学や兵学だけでなく、西洋の海防や造船、砲台の構築についてなどの知識がありました。

1857年に工事に着手され1864年に完成しました。その二年後の1866年にすべての付帯施設の工事が完了し、箱館奉行所が移転されました。

星形の意味

1855年フランスの軍艦が箱館に入港した際に、武田斐三郎は副艦長からの指導を受け五稜郭を設計しています。

この星形の築城は15世紀半ば以降のイタリアで発生した築城方式です。

当時フランス軍がイタリア半島に侵攻した際、従来の城壁ではフランス軍の新型火砲により容易に破壊されてしまいました。

そのため、火砲の威力に対抗するために城壁が低く分厚くなり、砕け散らないようと設計されました。

また、要塞の死角をなくすために、多数の方向からの援護射撃ができるように多面体を組み合わせる必要がありました。

それが星形となった理由です。

右の写真にあるように各先端の内側に砲台・射撃可能スペースを設置し左右の突起の辺縁に近づいた敵兵を射撃することができるように造られています。

これにより敵の侵入は困難となります。

ニッポン旅マガジン/五稜郭

箱館戦争

1868年戊辰戦争で劣勢の状況にあった榎本武揚率いる旧幕府軍は総勢約3000人で蝦夷地に上陸します。

そしてこの中に土方歳三がいました。

新政権設立を嘆願する榎本軍でしたが、明治新政府は拒否。1869年に征討軍を派遣。

箱館戦争となります。

榎本軍は五稜郭を占拠しますが、徐々に新政府軍に追い詰められていき、五稜郭に立てこもります。

5月11日土方歳三は弁天台場という味方の駐留地の救出に向かいますが、指揮中に狙撃されてしまいます。

そしてその1週間後の5月18日榎本の降伏により箱館戦争および戊辰戦争は終結となります。

五稜郭公園

1913年函館区長により五稜郭を公園として貸与してほしいとの請願を行い、翌1914年に五稜郭公園として一般開放されました。

また、1913年から10年かけて函館毎日新聞の発行1万号を記念して数千本のソメイヨシノが植樹され、現在も北海道内有数の花見の名所となりました。

1964年には五稜郭築城100年を記念して、高さ60mの五稜郭タワーが開業しました。このタワーは2006年に現在ある107mの新タワーに改築されています。

さいごに

今回は五稜郭について簡単にまとめました。

参考になれば幸甚です。

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